Chris Gore 師聖会 ヒーリング・ミニストリー(Bethel Church) 2017年1月13日 at.東京 N教会

                                                              2017 2月10日


  ● 集会 @:    ・・・・・・  十字架により、 内側のイエス様の光を解き放つ


  今朝皆さんとご一緒できることを本当に感謝しています。 私はカリフォルニアから来ました。でも元々ニュージーランド人です。 クリスマスには故郷のニュージーランドに帰っていました。

  みなさんは、癒し について今回聞きに来られたと思います。 イエス様の癒しの力によって国々が触れられることを私は願っています。 そして”力のない教会”に対しては、立ち向かわなければならないと思います。 神の 特定の人たちが用いられる時代は終わりました。今は神様ご自身が人々を通して働かれる時代です。
  この2つぐらいのセッションを通してやりたいことは、癒しについて語る前の土台作りをしたいのです。 神の人々が 癒しの力で歩むことができない理由があります。
  この 癒しの力に歩むことに失敗してしまう理由の一つは、”神学”自体が間違っているということです。そして私たちの体験に聖書を合わせようとするのですが、そうではなくて、聖書に 私たちの体験を合わせなければなりません。私たちの体験を、聖書のレベルまで持って来なければなりません。
  もう一つの、神様の力に触れることに失敗してしまう理由があります。 それは 「天のお父様の心」 という啓示を失っているからです。もし、天のお父様の心を私たちがよく知ったならば、癒しが神様のみこころかどうかを疑う必要はなくなります。 私たちはキリストの体が整えられることを願っています。 イエス・キリストが、その高価な血潮という代価を払われた、その報いをイエス様が受けるのを見たいのです。 歴史的に キリストの体は、私たちの体験に基づいて”神学”を作ってきました。 神様の言葉のレベルを、自分たちの生活のレベルまで引き下げてしまいました。 しかし私は、国々が変えられることを願っています。 イエス様が十字架にかかられたのは、私たちがただ教会に行けるようになるためだけではありません。そしてキリストの体である私たちが、私たちの内に住まわれるキリスト、栄光の望みである方、という啓示を受け取りたいのです。 この 「天のお父様の心」という啓示を私たちがしっかりと受け取るとき、私たちの内に住まわれる 栄光の望みであるキリストが、私たちを通して現れてきます
  しかし「奇跡」がないということは、この現状を見て神様がどういう方かという判断をしてしまったということです。しかしこの現状が神様の心を表しているのではありません。

  ある方々が神経質になる話題について触れたいと思います。 それはただ癒しに関することだけではありません。もし私たちが土台をしっかりと据えるなら、その土台から癒しの力が流れてきます。 主の「さばき」について少し語りたいと思います。 主のさばきというテーマについて語ると、皆 神経質になってくることがあります。しかし、さばきの中には、「あなたは無実です」という宣告もあるのです。 私たちが裁判所に出る時、私たちは裁判官に向かいます。裁判官はあなたを無実と宣告する権限もあるのです。


  ヨハネ12:31、32。 「今、この世をさばく時が来ました。 そしてこの世の支配者が 投げ捨てられる時が来ました。 もしわたしが、この地上から高くに上げられるなら、わたしは すべての人々(×)をわたしのもとに引き寄せます。」

  このみことばは 聖書全体の中でも 最も誤解されている言葉の一つです。 私たちのミニストリーの土台に、神様がどんなに良い方であるか、すばらしい方であるか、ということを置かなくてはなりません。そうでなければ私たちの”神観”が、歪んでいってしまうのです。
  多くの旧約聖書の預言者たちは今も生きています。そして今は世のさばきの時であると宣告する人たちがいるのです。主は今日もさばきを行っておられると。 でもこのヨハネの福音書のみことばは そのことを言っているのではないと信じます。それは、イエス・キリストというレンズを通して見たものではないからです。 「この世をさばく時が来ました」と。そして「この世の支配者が投げ捨てられる」。 旧約聖書的な預言者の働きは、こういうみことばを根拠として さばくために使ってしまいます。
  そして祈りの運動も起こりましたが、その方々もこのみことばを違った解釈をします。 「わたしがこの地上から高く上げられるなら、私自身に全ての人を引き寄せます。」 この祈りの運動の中では、イエス様が引き上げられる時に、奇跡的に空中に現れるかのように。そしてすべての人がイエス様に引き寄せられていく。 しかし、この聖書の原語を見る時に、”人々”という言葉はその中に含まれていません。実際に言っているのはこのようなことです。

  「今はこの世のさばきの時。そしてこの世の支配者が投げ捨てられる。 わたしがここから引き上げられるなら、すべてを(○)私に引き寄せる。」

  何かを聖書から学ぶときは 文脈というものが大事であることをご存知だと思います。 この箇所だけ取って、”神様はこの世の罪を厳しくさばかれる方”という神観を持つことがあるかもしれません。 でもこの文脈の中で言われることを注意深く学ぶなら、33節ではこのように言っています。
  「イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して このことを言われた。」 とあります。
  この「引き上げられる」ということは、イエス様が空中に来られることを指していたのではありません。これは、「十字架に上げられる」ということを指していました。どのようにイエス様が死なれるかということを示しています。 そして「今、この世のさばかれる時です。」
  そして「すべてを私に引き寄せる」とあります。 イエス様は何をご自身に引き寄せておられるのでしょうか? この世のさばき です。 つまり、十字架で、この世のさばきをすべて自分に引き受けられた、ということです。 イエス様がすべてのさばきを引き受けて、あなたのために代価を支払ってくださいました。 キリストがあなたにとってどのような方であるかが、あなたを通して流れていくようになります。
  ある教会は、天のお父様の心を間違って解釈してしまいました。そして神様は怒って国々を今さばいておられると言うことがあります。 この 日本の津波も、神様が罪を裁かれたのだという人もいました。「死の天使」はなぜかアメリカを過ぎ越してしまっったようですね。そのような解釈をすることによって、天のお父様の本当の心を 間違って人々に言ってしまうことがあります。 教会として私たちはイエス・キリストが本当はどのような方かを、もう一度見る必要があります。十字架でイエス様がなさったことは、皆さんへのさばきを すべて引き受けてくださった、ということです。
  聖書によると、私たちは より偉大な栄光に満ちた時代に、今 生きている と書かれています。
  確かに聖書には、「さばきの日」について語っている箇所があります。 しかし「さばきの日」は単数形で、「栄光に満ちた日々」は複数形になっています。 もちろん さばきの日についても私たちは信じています。しかしそれは今日の事を指しているとは思いません。もうすぐその時が来るとも思いません。 今は、神様の栄光があらわされる偉大な日々に生きていると信じます。 いまこそ、教会が立ち上がって輝く時です。教会として神様の栄光があらわされるべき時です。 ただ私たちが反映して映し出すだけでなく、私たち自身がキリストの栄光を運ぶ者となります。 このような考え方は皆さんにとって新しいかもしれません。でもイエス様はこの地上におられるときに言われました。 「病人を癒し、らい病人をきよめ、死人をよみがえらせなさい。」 そして、「神の御国の福音を宣べ伝えなさい。」 でも協会は、神の国の福音を伝えてはいませんでした。神の国の福音ではなくて、「救い」の福音だけを宣べ伝えていました。ここには違いがあります。
  「救い」の福音は、私たちが天国に行く ということを指しています。それだけを強調することによって、私たちがこの大変な時代から逃げていくことばかりを求めていたのです。何人の人を連れて天国に行けるか、ということ。 しかしイエス様ご自身が、「栄光に輝く花嫁」の所に戻ってくる、と言われました。 だた惨状から引き上げてくださいと祈っている教会に来られるのではありません。 神の国の福音は、逆に、「天国」をこの地上に引き下ろす、ということです。 今この場所で、私たちはどれだけの天国を運んでいるのでしょうか? そのようなことをしないで ただ私たちをここから連れ出してください と祈っているかもしれません。 もちろん、イエス様を信じる人は、いつの日か天国に行けることを信じています。もちろん「救い」の福音を私は信じています。しかしそれは、神の国の福音の一部です。 私たちはこの地上で、天国の実を十分現していないので、ただ天国に行ける日だけを待ち望んでいるのです。 教会として私たちはイエス様がどれほど素晴らしい方かを知る必要があります。 お父様がどんな方か、皆さん知りたいですか?

  天のお父様がどのような方かを知るためには、ヘブル書の1章3節にはっきりと書かれています。 ・・・ この方は、父なる神様を 正確に表している方です。
  イエス・キリストだけが、父なる神を正確に表している方です。 ですから、天のお父様がどんな方かを知りたいなら、イエス・キリストがどのような方かを知ることです。 私たちの 癒しのミニストリーのモデル、また 人生のモデルは、イエス様ご自身です。 私たちが旧約聖書を誤解して、父なる神様を厳しい方のように思ってしまうことがあります。 しかし私たちの本当の模範は、イエスキリストご自身の人格の中にあります。キリストは、「わたしを見た者は、お父さんを見たのです。」と言われました。 イエス・キリストという人を見る時、イエス様はハリケーンが来ているのを見ても、”もっと”と祝福されることはありませんでした。津波を見て、もっとそのことが起こるように と祈られたことはありません。地震を歓迎されたのを見たことがありません。イエス様が地上で、あなたがもっと人格的な人になるためにこの病気をあげます、と言われたことはありません。 イエス様という人格の中に、出会ったすべての嵐は鎮められました。 イエス様に癒しを求めてきた人たちには、すべて癒されました。 イエス様が行かれた葬式は、みなメチャクチャになりました。 ご自身の葬式も、メチャクチャになりました。 それは私たちのミニストリーの模範であるべきです。 私たちは国々の教会として、私たちはイエス様がどのような方かをもっと調べて、その方をそのまま表す教会になっていかなければなりません。

   ヘブル1:3 「父なる神様を完全にコピーした、そして表したものである。」 とあります。 それは旧約聖書における神様がどのような方かということではありません。 私たちは、「新約」、新しい契約 の時代に生きています。 古い契約については疑問があります。 古い契約を誤解して 今に適用している人たちが多くいます。 その人々の誤解を解くために、神様は御子イエス様を遣わして、本当の「心」を現されました。 イエス様ご自身が完璧な「神学」です。 神様はレッスンのために私たちに病気を送る ということはありませんでした。逆に、病気を懲らしめるために、イエス様を送られました。 私たちは心の思い、考え方を変えなくてはなりません。 私たちが、心の思いを完全に一新するまでは勝利する教会とはならないからです。 イエス様は、そのような 勝利する、栄光に輝く花嫁の教会に戻って来られます。 私たちが心の思い、考え方を変えなくては、イエス様が戻って来られることもない、ということになってしまいます。私は地上で天国を体験しないまま天国に行きたいとは思っていません。どれだけの「天」をこの地上で体験し、表すことができるか、そのことを願っています。

  教会は、力のない状態に立ち向かっていくべき時です。 そうすることで、イエス様が血潮を流して、苦難を通して、支払われた代価のすべての報いを イエス様ご自身が受けることになります。 イエス様があのような苦しみに会われたのは、ただ私たちが教会に行くことができるためではありません。
  マタイの6章に、「主の祈り」が出てきます。 このように言っています。「天におられる、私たちのお父様。あなたの御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天でなされるように 地上でもなされますように。」 それは天国への祈りだけではありません。天から地上に、という祈りです。 信じる私たちの特権は、私たちの場所は 天に座している、と書かれています。エペソの手紙では、「私たちは天の所に座らされた」、とあります。 それは単なる教理ではありません。 私たちの現在体験している、現実 とならなければなりません。私たちが天国の天の父なる神の右の座の近くに座っているなら、神様とともに働く者となります。 ですから「主の祈り」では、「私たちのお父さん」と呼んでいます。 私たちは息子であり娘です。 どこか遠くにいる父、ママ父、おじいさん ではありません。 お父さんは 遺産としてご自身の「力」を分け与えてくださいます。 もし悪魔から権威を奪ってしまったら 悪魔にはどれだけの力があるでしょうか? いまその権威はすべて奪われ、私たちに与えられたのです。 でも多くの人は、天国に行ったら自分はその権威を使えるかなと思っています。 私たちは、天国でそのような力を表す必要はないのです。その権威は、私たちが地上で表すようにと与えられたのです。 教会は神様の力を一生懸命求めています。私は神様を必死で求めているというわけではありません。 神様を、どこか遠くにおられるように必死で求めているのではなく、私のうちにすでにおられる方に心を留めています。 イエス様がこの地上におられた時、 「わたしは世の光である。」と言われました。 そして、イエス様がこの地上から離れられる時、 「これからは、あなたがたが 世の光です。」 光をもって、何かしなさい、と言われました。 教会として、私たちは一人一人が立ち上がって、既に与えられている権威に気づいて、用いる時、何が起こるでしょうか? 「あなたの御国が来ますように。 みこころがなされますように。 天で行われるのと同じように、地でも行われますように。」 病気は天国にはありません。 地上においても、多くの病気をそこに見ないのです。 私たちの祈りの多くは、私たちが何者であるかを知らずに祈ってしまうことがあります。 遠くにいる神様に、なんとか来て助けてください と、そのような祈りをしてしまいます。でも神様にしてくださいと祈っていることには、神様が「あなたがしなさい。」と言っていることがあります。 それは私たちが、「神の息子、娘」であることを知るときにできることです。 イエス様ご自身が私たちの内側に住まう、と言われました。 この キリストのいのちは、信じていない人々のうちに閉じ込められてしまっている場合があります。しかし、イエス様は、外に出たいのです。 教会として、イエス様を私たちの内側から 外へ出す時です。 そしてイエス様の側に日本が勝ち取られるのを見たいです。 日本が今救われる時が来ました。 ただ私たちが日曜日の礼拝を守っているというだけでは、救われるのではありません。 海外の有名な講師を招いたというだけで、救われるのではありません。 一人一人が既に与えられている権威を悟って、それを用い始める時に、人々は救われます。 私たちは遠くにあるリバイバルが来るようにという祈りを卒業して、リバイバルはすでに私たちの内側にある、という所に立たなくてはなりません。 イエス様がもう一つ何か腰を上げてしなければならないかのようなリバイバル、という祈りはやめなくてはなりません。 なぜなら、イエス様がすでになすべきことをしてくださったからです。今、私たちの番です。私たちが立ち上がって輝く時です。 イザヤの60章には、「立ち上がり、輝きなさい」と。 「起き上がり、輝きなさい。 あなたの光があなたの上に来ている。」
  使徒の働きの12章に 興味深い話があります。 ペテロが刑務所に入れられました。教会はペテロが解放されるように祈っていました。 そして徹夜の祈りがささげられていました。そしてペテロは奇跡的に解放されました。 そしてそのために祈り会をしていた家に ペテロは現れました。そしてドアをノックしました。 若い女性がドアを開けようとしました。ペテロがそこにいるのに気づきました。そしてショックを受けました。そしてドアを開けずに、2階に行って、ペテロがドアの所にいる と伝えました。 しかし彼らは言いました。”私たちは彼が解放されるように一生懸命祈っているから、ここにいるはずがない。” 今日の私たちの祈りも しばしばそのようになっていないでしょうか?
  やがて来る、いつか来る リバイバルについて語り、祈っています。 ある日 すばらしいしるしと奇跡が、この国に現れる と話しているかもしれません。それは間もなく来る、においもする、と。このリバイバルは近い。 リバイバルは将来に予定されているイベントではありません。 リバイバルはあなた自身です。
  ここ数年前のことですが、神様がもう一つ何かをしなければならないかのようなリバイバルを祈るのをやめようと思いました。 天のお父様は、イエス・キリストを遣わすことによって、究極の値を支払われました。 もちろん私たちはもっと神様の祝福を祈ります。でも、神様がもう一仕事何かしなければならないような祈りはしません。 そうでなければ、十字架ですでに成し遂げられた力を否定することになります。 14年前のある日のことを思い出します。 もう私はリバイバルのためにそのような祈りはしません。私はリバイバルになります。神様が私を召された リバイバルそのものになります。リバイバルはイベントではなく、人 だからです。 私たち自身が聖霊の火に燃え上がることを選ぶなら、神様が私を召されたように生きます、と決心します。 「復活」されたイエス・キリストのが、聖霊を通して私の上に宿っている。 その生き方をしながら、周りの人に分かち合っていきます。 そして、私の神学を、イエス様ご自身に変えていきます。 そのことを通して、周りの環境を、イエス・キリストご自身の目を通して見えるようになっていきました。そして御力が、私を通して環境に表されるのを見るようになりました。 天のお父様の目から環境を見る必要があります。 神様は地上の国々をさばいているのではありません。愛してくださっています。 この方は、愛に満ちた天のお父様です。 だから私は天のお父様を喜ばせるために、何か立派なパフォーマンスをする必要はありません。すでに私を喜んでいる、と言われる神様です。 このように私の神学をイエス様ご自身に変えていくときに、そして私たちの人生の真中にイエス様がおられて、イエス様を人々に流しだしていくときに、私たちの人生に その真中に 十字架があるべきです。 私たちの”体験”を真中に据えてはいけません。 もちろん私は体験に反対しません。 しかし体験に自分の考えを合わせるのではなく、体験が聖書の真理に合ってこなければなりません。 そうするならイエス様の力が私たちを通して流れだします。

  数週間前に、フロリダのチームと一緒にいました。 完全に目が見えない女性がその集会に来ました。13年間 目が見えませんでした。白い杖を持って来られました。結婚して8年になりますが御主人を一度も見たことはありません。 彼女は祈りを受けました。目が開きました。 初めて自分の御主人を見ました。 彼女が見て気に入ってくれたらよいのになあと思いました。 白い杖はたたんで持って帰りました。
  去年の6月から12月までの間に、500人の耳の聞こえない人たちが聞こえるようになったのを この目で見てきました。 フランスのある一つの集会では、カトリックの集会でしたが、イエス様はカトリックも大好きです。 100人の耳が開かれました。カトリックの人々に奉仕するのは私は好きです。彼らは、超自然的なことに心を開いているのです。カトリックの人に、超自然的なことは今もあるのですよと説得する必要はありません。 でもカリスマ、ペンテコステの人々に、イエス様は今も生きていますよ、と言わなければならない時代になりました。 ある集会には2000人のカトリックの人たちが来ました。そして1200人の人たちが、イエス様に自分の人生を明け渡します と告白しました。そして一つの集会で100人の耳の聞こえない人たちの耳が開かれました。
  皆さん、今この場所で、どれだけ天国を見たいですか?そのためには、私たちの考え方、思いを変えなくてはなりません。 私たちは力がないことをサポートするような神学を作ってきました。その神学は変わるべき時です。私たちは変わらなくてはなりません。そうでなければイエス様が払われた代価の報いをすべてを受けることにはならないのです。私たちに力がないのが当然だというような神学を捨てるならば、主のみ言葉自身からではなく、私たちの体験から 体験しないのでそのようなことは今は起こらない、という神学を作ってしまいました。


  (ミニストリー)

  どうぞお立ちください。 この2、3日で、私たちは祈りたいと思います。 明日も、また今日の午後も インパーテーションの時間には、皆さんに手を置いて祈りたいと思います。 特に明日の午後は、皆さんの癒しと奇跡のために祈りたいと思います。
  聖書を勉強しているだけで、聖書を「体験」していなければ意味はないと私は思います。 私たちは聖書を体験するための聖書の学びをしなければなりません。私は長年聖書の勉強をしていましたが、一つも聖書を体験していない、そういう時代がありました。 それは”宗教”です。 宗教には 私は興味がありません。 私は イエス様に興味があります。イエス様がその成し遂げられた苦難の報いのすべてを受けられますように。

  隣の方の肩に手を置いてください。 私は一つのことを求めています。聖書には、私の心を一新する、ということについて語られています。 超自然的な、不可能なことも、私たちが 合理的なことに見え始める時、思いが変えられています。 そして考え方が変わっていきます。 このように私は祈りたいです。 隣の方にちょっと恐ろしい祈りをしていただきたいと思います。 この2日間で彼らに驚くべき方法で用いらますように、そのことで彼らの考え方が全く変えられてしまうように。 私たちはコーヒーショップに来ているわけではありません。 角で静かに祈る必要はありません。 天国が介入するような祈りをしましょう。あなたが祈ってほしいように、その方に祈ってください。 祈りましょう。

       (祈りの時)


  私たちが口で宣言することには、非常に大きな力があります。 声を出して語るということには、力があります。 もう一つのことをしたいと思います。

  列王記に面白い話があります。 第1列王記の18章、大変な飢饉がイスラエルに訪れました。 エリヤがその飢饉をもたらす祈りをしました。 そしてそこから戻す時に、膝に頭を入れるような祈りをしました。 すごい力を尽くす、熱心な、大変な祈りです。 もう一度雨が降るという、神様の祝福を祈るときのそのような祈りをしていました。 飢饉が打ち破られるためでした。 そして祈りながら、雲が来るか、雨が来るかと、しもべを遣わしていました。しもべが帰ってきました。雲はまだありません。 そしてまた膝の中に頭を入れて祈りました。また祈りました。 その過程を7回も繰り返しています。
  このことは少し興味深いと私は思いました。 エリヤは、神様の祝福を求めて祈っていたのです。でも、そもそもだれがこの飢饉をもたらしたのでしょうか? エリヤ自身です。 それは17章に書かれています。でも飢饉をもたらすためには、そんなに一生懸命祈ってはいなかったのです。ただ口で、声で、宣言しただけです。 私が今度宣言するまで、地上に雨は降らない、と。 主のさばきをもたらす時には そのようなことでした。 でも祝福を再び取り戻す時には、一生懸命祈りました。

  しかし、私たちは新しい契約に時代に生きています。 でも今の新約の教会の多くが、まだ古い契約の中にいるかのような祈りをしていないでしょうか? 神様の祝福よりも、神様のさばきのほうを より多く信じてしまっていないでしょうか?
  そして、生と死は神の力にある、とは言っていません。 聖書は、「死といのちはあなたの舌の力にある」と語っています。 ですから、日本の上に主の祝福を宣言してはどうでしょうか? 自分の国を呪うような否定的なことを言うのをやめましょう。 これは皆さんを強制するために語っているのではありません。 津波や地震が、神様のさばきさばきと語ることによって、私たちは のろいを語ってしまう、そういうこともあるのではないでしょうか? 神様がどれほど素晴らしい方、良い方であるかよりも、神様の怒りやさばきに焦点を置いてしまってはいないでしょうか?
  聖書には、「敵は 盗み、殺し、滅ぼすために来ました。 しかし、イエス・キリストは、あなたに いのちを与えるために、しかも 豊かないのちを与えるために 来られた。」 と書かれています。
  私たちは、天のお父様が、どれほど良い方、すばらしい方でおられるか をもう一度見直す必要があります。 国の上に神様の祝福を語りだす必要があります。 主の祝福を、日本の上に宣言する必要があります。 この日本がどれだけ霊的に暗いのか、と ぶつぶつ不平を言うのはやめましょう。 その代わりに、神様の光がどれほど大きいかに注目しましょう。
  今、良い知らせがあります。 暗闇が日本の問題なのではありません。”暗闇”を辞書で調べました。 暗闇とは、光が無いこと。 でもイエス様はこのことについてあなたに言われました。この地上にいる時は、わたしが世の光でした。しかしこれからは、あなたが世の光です。 このことを用いて何かをしてください。 暗すぎる場所というのはありません。私たちの考え方、思いを変えなくてはなりません。暗い場所というのはありません。一人だけわかったようなのでもう一度言いますが、暗い場所というものは存在しません。もしそこにあなたが現れるならです。あなたの中に、世の光があるからです。

  最後の数分間でこのことをしましょう。本当に、死といのちが私たちの舌にかかっていることを知るなら、私たちの国は暗いというのをやめるだけでどれほど変わることでしょうか?私たちは問題ではなく、答えに焦点を当てなければなりません。
  何を日本に見たいですか?病が癒されるのを見たいですか?この国がイエス様のもとに来ることを見たいですか? それはあなたから始まります。
  4分間このことをします。あなたの見たいもの、預言的なあなたの宣言を通して、問題に対して祈るのではありません。答えを祈ります。 今は、暗闇を縛ったり、そっちにフォーカスを置かないでください。 光を、私たちは解き放ちます。 多くの人は暗闇を追い出すことに集中するあまり、暗闇ばかりに目が行っていることがあります。 今は、私たちは、答え である方に 注目しましょう。
  クリスチャンの不信仰の中に閉じ込められているイエス様は、外に出たがっているのです。 今、預言的な宣言を始めましょう。主がこの国にしてほしいことを宣言してください。あなたの町のために、市のために、国のために祈ってください。しるしと奇跡が増えるように宣言してください。 声をあげて、預言的な宣言をしましょう。


       (祈り、宣言)


  (最後に一緒の宣言)  日本は救われます






  ● 集会 A: (一部省略)   ・・・・・ 恵みによるアイデンティティー


  2006年に私はアメリカに引っ越しました。 今でもニュージーランド人で、パスポートもそうです。 私の書いた本が日本語にも訳され、後ろのほうに置いています。

  私の大きな願いは、クリスチャンが力の中を歩むことです。 私の召しは、地方のない教会に対応することです。 神様は私たちが考えているよりももっと良い方です。 神様ではなく、私たちのほうが考え方を変える必要があります。
  ただ 癒しの原則を教えるだけではありません。王の王、キリストを知らなければなりません。ですから、原則(principle)よりも、王子(prince)を教えたいのです。 キリストにあって私たちが何者であるか、このアイデンティティーを知るならば、私たちは勝利の人生を歩み始めます。

  自分がまだふさわしくない という思いから、神様の力の中を歩めない人がいます。 しかし実は、小羊の血潮によって、すでに ふさわしい者とされているのです。 ただし、元々ふさわしくない者に その価値が与えられました。 これが「恵み」です。 私たちが受けるべきものをイエス様は受け取ってくださり、イエス様が受けるものを私たちに与えてくださいました。 もしそうでなければ、それは”にせの謙遜”です。 私たちの価値は、私たちが何をしたかによるのではなく、キリストが私たちに何をしてくださったかによります。

  私はアメリカの一番重い罪を犯した人たちの刑務所、500年の刑、死刑などがいる刑務所に行って伝道しています。その刑務所の中ですばらしい神様のわざが起こっています。私には3人の娘と、65人の息子たちが、刑務所にいます。 私たちは どれだけ赦されたかのレベルに従って、歩むことになります。 ある信じた若い囚人は、そのことを理解して、刑務所の中で 癒しと 伝道を始めています。

  聖書の中にはたくさんの神の人たちを見ますが、自分はふさわしくないと思われる原因となるものがありました。
  ノアは酔っぱらっていました。 アブラハムは年を取り過ぎていました。 イサクは昼間から夢を見る人でした。 ヤコブはうそつきでした。 レアは醜いと言われました。 ヨセフは虐待を受けていました。 モーセはどもりでした。 ギデオンは恐れていました。 サムソンは女好きでした。 ラハブは売春婦でした。 エレミヤと テモテは 若すぎると言われました。 ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯しました。 エリヤは自殺願望がありました。 ヨナは神様から逃げました。 ナオミは未亡人でした。 ヨブは破産しました。 ペテロはイエス・キリストを3度否定しました。 弟子たちはみなゲッセマネの園で眠りこけていました。 マルタはあらゆることを心配していました。 サマリヤの女性は一回以上離婚していました。 ザアカイは背が低すぎました。 ラザロは死んでいました! ・・・ 私たちが価値あるのは、ただ イエス・キリストの血潮のゆえです。

  私は宗教的な環境で育てられ、私がどんなにひどい人間であるかだけを教えられました。 勝利者のキリスト者として生きることは教えられませんでした。

   ヨハネ14:20  「その日、わたしが父にいること、そして父がわたしにあり、わたしがあなたがたにいることを 知るでしょう。」

   ガラテヤ2:20 「もはや私の中にいるのは私自身ではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」

  どうして私たちは力ある働きに立てないのでしょうか?なぜ私を通して父なる神様がわざをなされるのを見ないのでしょうか。 このような質問は、あなたがキリストにあって自分が何者であるかを十分悟っていない証拠です。 もはやあなたの中にいる”あなた”ではなく、キリストが生きておられるのです。 あなたがキリストに人生を明け渡した瞬間、あなたの中に”私”という人は、十字架につけられました。 イエス様はただあなたを「救う」ために来たのではなく、”殺す”ために来たのです。あなた自身からあなたを解放するために、あなたは十字架につけられなければなりませんでした。 「キリストとともに十字架につけられた」のです。 キリストは、あなたのために死んでくださっただけではなく、あなた自身として死んでくださったのです。
  ”宗教”の中では、日々 死につつある、と教えます。私たちの内側には罪深い肉の性質があるので、その罪深い性質を毎日 死に渡さなくてはならない、と。 ”罪深い人”がまだ内側に残っている、という考え方です。
  しかし、聖書によると、その罪深い性質は、キリストとともに十字架につけられた、とあります。 ですから、これから自分自身を殺していく必要はありません。 すでに死んだ者とみなす必要があります。 さもなければ、信仰を持ちながら、罪の中を歩んでしまうことになります。 あなたの古い人は取り扱われ、死んだのです。
  また、あなたはキリストと共に死んだだけではなく、キリストとともによみがえりました。 内側にいたのが、かつては”私”だったのが、よみがえったときに「私たち」になりました。キリストと”かつての私”が、共に一つにされたのです。 神様からもはや離れることはできません。 イエス・キリストの血潮によって、贖われ、買い取られ、覆われて、そして全く新しい性質が与えられました。 「罪人」ではなく「聖徒」です。 自分を「罪人」、「罪人」と言うのはやめましょう。

   Tヨハネ3:9 「神の子とされた者は、罪を犯すことができない。」

  罪を犯すのは、恵みによって救われたのに、そのアイデンティティーから外れた時、まだ罪人だと思っているので罪を犯すのです。キリストにあって新しい者にされている、というアイデンティティーです。 クリスチャンは時に罪を犯すことがありますが、そのアイデンティティーが罪人になってしまうわけではありません。

  キリストは罪も、病気もない方でした。勝利者でした。破産者ではありませんでした。すべての環境に打ち勝つことができる方でした。 私たちもそうあるべきです。 「罪人」という言葉は、エペソの手紙の中に14回出てきます。しかし「聖徒」の現在の状況を指して言っている箇所は一つもありません。
  私には味方も敵もたくさんいます。 あるとき教会で”あなたは人々に罪を犯させるライセンスを与えていませんか?”という手紙をもらいました。でも、新しいアイデンティティーによって罪から解放される方法を教えているのです。

   Uコリント5:17 「だれでもイエス・キリストにあるなら、その人は新しい創造されたもの(新しい被造物)です。 元々のものは過ぎ去り、見よ すべてが新しくなりました。」

  あなたの過去があなたを決定づけるのではありません。イエス・キリストが決定するのです。 イエス様はあなたをどのような存在と言われるのでしょうか?

   ヨハネ15:5  「わたしはぶどうの木です。 あなたがたは枝です。」

  実際に実をつけるのは幹ではなく枝の部分です。 イエス様はすでに、あなたはこのような者である、と言われています。このことを受け入れてください。 私たちはこの枝になろうと努力します。”宗教”はあなたががんばれば いつかはそのようになれますよ、と教えます。でも イエス様は、すでに、実を結ぶ枝になった と言っているのです。


   創世記3:7  「このようにして二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らはいちじくの葉をつづり合わせて自分たちの腰の覆いを作った。」

  イエス様が いちじくの木を呪われたことがありました。 これはイスラエルへの呪いではありません。いちじくという言葉には「自己義」という意味があります。 自分の義で、最も本質的なものを隠す。 このように自分を隠すことを教会が教えてしまうことがあります。 キリストにあって神の義、キリストの義となったので、大胆に御座に出ることができます。 しかし、この自己義によって偽ってキリストの御座に出ていないでしょうか。自己義によればいつも神様から逃げることになります。「アダム、エバ、あなたはどこにいますか?」と探しています。
  この後神様は、皮の衣を二人に着せてくださいました。 犠牲が伴う 羊の皮の衣です。 私はニュージーランドの小さな町にいた時、人の数が5%に対し、羊が95%もいて、人々は普通に羊を屠ります。そのとき多量の血が流れ出ます。 この「着せてくださる」の原語は、完全に全体を覆い隠す、という意味です。
  イエス・キリストの血潮によって、初めて覆われるのです。すでに神様は私たちに キリストを着せてくださいました。 どうして再び 部分的にしか隠せない”自己義”に頼ってしまうのでしょうか? Uコリント5章にあるように、古いものを直すのでなく、全く新しい創造物です。古い自転車を捨てて、フェラーリに乗っていくようなものです。 この国に、本当の自分が何者かを悟った多くの人々が必要です。 私たちのパフォーマンスではなく、キリストが何をなさったかです。
  女性が妊娠するとき、母親の血は赤ちゃんに入りません。栄養分と酸素を送ります。血は父親からも来ます。 マリヤは処女で、イエス様はヨセフの血を受け継いでいません。血は父親から来ます。神様からの血です。 だから、キリストの義によりたのむ私たちは、アダムとエバの罪の血筋を受け継いではいません。
  刑務所でかつてレイプと殺人を犯した人が悔い改めましたが、その人の自己義と、そのような罪を犯したことのないあなたの自己義は、神様の目には同じであり、どちらも汚れたぼろ布です。今は、過去がどうであれ、同じ義の人とされています。
  被造物はうめくようにして、神の子たちの現れを待ち望んでいます。 今は少数の人しか用いられる時代ではありません。教会全体が軍隊として立ち上がるときです。


  私が見た最も大きな働きは、チームの子供たちの手によってなされてきました。 子供たちは神様が下さる義というものをよく理解しているからです。 お父さんがこのような存在ですよと言えばそのまま受け取ります。 そしてそのまま信じて行っています。
  フランスでカトリックのカンファランスがありました。 教会がミサを開いている時間に、私は違う部屋にいて聖餐式を持ち、そこに子供達も入れられました。 彼らに福音をそのまま語りました。8歳から14歳までの子供たち25人は全員 信じました。 その夜の集会に、子供たちがミニストリー・チームとして出てくるように言いました。 その教会では10年間以上イエス様を知った人だけがミニストリーができることになっていましたが、内側にイエス様がおられる子供たちはすぐに働きができます。 夜9時から12時までの遅い集会で20人の子供たちが来ました。 懺悔もミサにもあずかっていない子供たちを 大人たちは不思議に思いました。 私は9歳の女の子を壇上に連れ、耳の聞こえない人に、私が1、2、3と言ってから、彼女に”耳よ開け”と言わせました。 子供たちは、天のお父様が「できる」と言われたことをそのまま受け取って行うのです。 私は、耳の聞こえない人は全員立ち上がってください、と言いました。たくさんの人が立ち上がり、女の子が”イエスの名前によって、耳よ開け”と言うと、その一つの集会で100人の耳の聞こえない人が癒されました。


  (ミニストリー)
  皆さん、お立ちください。 私は、日本が救われるのを見たいのです。今、立ち上がるときです。輝く時です。 孤児ではなく、神の息子、娘として歩む時です。
  (信徒たちによる牧師たちのために祈り、 それぞれの教会の信徒たちに神の働きを託していくように)  (牧師たちによる信徒たちへの祈り)  今、教会が大きなブレイクスルーを体験します。




  ● 集会 B: (一部省略) 3:30−  若干の教えと インパーテーション(賜物の分与)の時間


  今日 来ておられるすべての人に手を置きます。 私の本から少し分かち合います。
  教会は歴史的に、私たちの経験から判断してしまったのです。 神様はどんな時にも良い方です。私たちが勝利したり、敗北したにせよ、神様のご性質に何ら変わる所がありません。
  起きなかった奇跡について、私たちはどのように取り扱うでしょうか? 今日の午後、忍耐して勝ち抜く、ということをインパートしたいのです。
  目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、ガンから癒され、・・・などのあかしはよく聞きますが、癒されなかった人のあかしはあまり聞きません。癒されなかった人も、実は たくさんいるのです。 でも だからといって、神様のご性質が変わるということはありません。 私の喜ぶことは、結果がどうであれ、人々の癒しのために祈り続けるということです。何人の人が癒されたからということが、成功のはかりになると思いません。 もしあなたを通して誰も癒されなかったとして、次の集会で祈ることができるでしょうか? 3人の人に祈って誰も癒されなかったとします。しかし、さらに多くの人に祈り続けることで学ばなくてはなりません。

  正直、2016年は私の人生の中で非常につらい時期でした。ある面ではすばらしいうち破りがありましたが、どんなに倒されたからと言って、もう一度進んでいきます。 人生の中には理解できないことが起こることがあります。
  ピリピ4:7 「理解を超えた平和をうけとる」 ということが書かれています。 理解を超えた、神様の平安を受け取るのです。すべてのことを理解しなければならないということを、神様に明け渡す時、その平安が来ます。

  20年以上、何度も、ある一人の人のために祈っています。 この人の中に、まだ打ち破りを見ていません。 この人が生まれた時、1995年、彼女が生まれた時、蘇生の処置をする必要がありました。 12歳の時、脊椎が104°も曲がって非常に歪んでいるのを医者から告げられ、背骨に棒を入れる手術を受けました。 9時間も逆さになる手術で、頭が2倍の大きさに腫れ、昏睡状態でした。 部屋にワーシップをかけ、その場所で礼拝をささげました。
  私は自分自身の経験に、福音の真理、神様の言葉を引き下げるようなことをしません。 天のお父さんは、いつも変わらない、良いお父さんであることを信じています。
  今はその娘は21歳になりました。彼女とは私の娘です。 知的にも、身体的にも 彼女は障害者です。 しかし、彼女は私の人生の喜びです。私は本当に祝福された男です。 私はやめません。神様が癒し主であることを 信じ続けます。 実に娘を通して、無条件に愛すること、忍耐について、今の働きの多くを 私の娘から学びました。

  私のこの状況を全く知らない預言者と食事をしたとき、”シャロットとは誰ですか?”と聞かれました。 ”10月7日に生まれた。” 私は、私の娘のことです、と答えました。 ”あなたは何を求めて信じているか、私にはわかりません。しかし奇跡がその子に起こります。それは世界を揺るがすことになります。”と言いました。
  起こらなかったことに、神様につまづいたり、腹を立ててしまう人がたくさんいます。 しかし聖書は言っています。盗み、殺し、滅ぼすために来るのは 悪魔です。 しかし、イエス様が来られたのは、いのちを与えるためであり、豊かないのちを与えるためです。 だから私たちが毎日の生活の中で、失意と失望にどのように対処するか、これが 明日、あなたがどのような実を結ぶかに影響を与えます。

    マタイ14:  バプテスマのヨハネの死。 しかしイエス様は 奇跡と癒しを続けて行われた。

  私は、キリストの体が、忍耐をもって勝ち抜く、ということを望んでいます。 決して止めないでください。 イエス様が十字架の上で受けられた苦難の報いを、イエス様がすべて受け取られるまで。 私は見ていること、聞いていることに影響されたくないと思います。ただ神様の言葉によって動かされます。 主の目は、この地上を行き巡り、私を選んでください、という方々を探し求めています。 イエス様が求めているのは教育のある方々ではありません。 私は15歳の時に学校へ行かなくなり、家出をしました。 神様に、ハイと言う人、止めませんと言う人、その人たちが何人かいれば、世界を変えることになります。
  私は1000人以上の人に祈って、一人も癒されませんでした。でも止めませんでした。 皆さんは、一人の人が癒されるまで、1000人以上の人に祈る必要はありません。私は神学が悪かったせいもあって癒しが起こりませんでした。 自分の環境ではなく、神様が絶対的に良いお方であることを知るようになってから 癒しが起こるようになりました。 それは経験に基づく神学ではなく、キリストの人格に基づく神学を持ったからです。


  今日、皆さんのために祈ります。 皆さんの中に、実を結ぶまであきらめない、という心が与えられるために。






         (参考) 動画リンク:  集会 @、   集会 A、   集会 B    (Chris師の見分け ○、 通訳のN牧師 ○)




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